マルクス帝の記念柱      栄光と社会不安
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マルクス帝の記念柱の全貌

前置き

古代ローマ時代には、数々の記念碑が建設され、現在でも各地で観光客の目を引くものも少なくはない。
今回、紹介するのは、そうした遺物の中でも、五賢帝時代最後の皇帝に捧げられた所謂、「マルクス・アウレリウス・アントニヌス記念柱」と呼ばれる記念碑である。



成立時期

この記念柱は、ローマ市内のコロンナ広場にあり、完成された正確な年代は分かっていないが、おそらくはマルクス帝の死後からコンモドゥス帝を経てセプティミウス・セウェルス帝の統治開始初期に当る紀元後180年頃から193年頃の間に完成したと考えられている。


記念柱の構造について

記念柱の基本構造は、おそらく五賢帝時代の「トラヤヌス帝の記念柱」を模倣したものであると考えて良い。 高さも、「トラヤヌス帝の記念柱」とだいたい同じくらいで、約41.95m程の高さで、とりわけ、最も模倣したと思われるのは、やはり、記念柱にそれを取り巻く螺旋状の「浮彫り」が彫り込まれている点である。尚、記念柱の頂には以前はマルクス帝の彫像が建っていたが、16世紀後半に聖パオロの像に置き換えられ現在に至っている。

マルクス記念柱のレリーフの一部
レリーフに描かれた戦闘場面

この記念柱は、マルクス帝による対ゲルマン人との「マルコマンニー戦争」での「戦勝報告」の意味合いも有し、上の画像のように螺旋状の「浮彫り」の一つ一つに戦いやその準備の情景や現地住民の風俗などが描かれている為、史料価値も十分にあると考えることが出来る。

このマルクス記念柱はしばしばトラヤヌス記念柱との類似性と共に、相違性も指摘されているが、とりわけ「浮彫り」の中に見出される、「躍動感」、「統一性」、そして、「物語の叙述的な展開」を、この記念柱からは見出すことが出来ない点が挙げられる。
これについては一つの原因として考えられるのは、トラヤヌス帝代にはシリアのダマスクス出身のアポロドロスと言う傑出した建築家、芸術家が存在しており、トラヤヌス記念柱やトラヤヌス広場、あるいはトラヤヌスの市場(*現在のデパートさながら)を、全て彼一人で請け負っていた為、一つの思想に従って建築設計が出来たことにあるが、一方、マルクス帝代には、そうした傑出した建築家に恵まれることがなく、結果として個々の建築家や芸術家が個別的に作業をしたことに帰せられるのではないかと思われる。


記念柱と「社会不安」

この記念柱からは当時のローマ社会を覆っていた「社会不安」を見出すことが出来ると主張する美術史家もいる。つまり、トラヤヌス帝代とはローマ帝国の絶頂期であったが、一方のマルクス帝代は、もはや黄昏に差し掛かっており、その時期を襲った「社会不安」がこの記念柱に反映されている、と言うことである。
以下に少し説明を加えてみる。

この記念柱に描かれているローマ軍団兵は、トラヤヌス記念柱に描かれているような、ローマ人が理想とした「質実剛健」さや「勇敢」さの気風を持った兵士達ではなく、最早、自分達すら信じることが出来ず、寧ろ、

・・・奇跡の到来を切望しているかのようであり、事実、辺境の軍団では、東方起源の復活思想をもつミトラス教が兵士達の不安な心をとらえ、各地にミトラエウム(ミトラス教礼拝堂)がつくられるようになる。・・・
(*『世界美術大全集 ―古代地中海とローマ』、P328より引用)

と言うことである。

この記念柱ができたとされる時期、すなわち、コンモドゥス帝の時期以降は、もはや、完全に数多くの伝統的な、あるいは新興宗教が入り乱れ、帝国内に住む多くのローマ人の心を捉えた時期でもあった。その中から、最終的にキリスト教が言わば、勝利を収める形で、後期ローマ帝国において国教化した、としばしば認識されているが、この時期は、それほどまでに、宗教や迷信が人々の心を捉えた時期であった。この点に関しては以下のような指摘がある。

・・・しかし、ここでわれわれに関心のある時期、すなわち、コンモドゥス帝時代にこれを適用するには、アントニーヌス朝時代の始め以来迷信に捌け口を見出した宗教的不安について上述したことを想起すれば足りるであろう。このような迷信はコンモドゥス帝時代に由々しいまでに力を得、これにともなって、東方密儀宗教に結びついた哲学諸派が普及し、奇蹟への期待が日常的なものとなった。・・・
(*『人類の美術 ―ローマ美術』p323より引用。)


記念柱と「奇跡」

以上の指摘の中で、我々が特に注目したいのは、人々の「奇蹟への期待が日常的なものとなった」と言う指摘である。というのも、「マルクス・アウレリウス記念柱」の「浮彫り」の中では、まさに、その「奇蹟」の状況が、言わばクローズ・アップされる形で、最も目立つ様に、そして、最も印象深く彫り込まれているからである。それは、「雷の奇蹟」と、その後に続いて彫り込まれた「雨の奇蹟」と題された「浮彫り」である。

マルクス記念柱のレリーフに描かれた「奇跡」
「記念柱」に描かれた「奇跡」

「雷の奇蹟」に関しては、紀元後172年頃、「マルコマンニ戦争」中に起こった「出来事」と解される説が有力である。それは、マルクス・アウレリウス帝が戦闘中に祈ったことにより、引き起こされた「奇蹟」である、と古代の伝記作家の間では考えられているという根拠に基づいている様である。
一方、「雨の奇蹟」に関しては、その年代に関しては、多くの説に分かれているといわれているが、具体的には、だいたい171年から174年の間を動き、その起こった「場所」に関しても、例えば、コティニー族の居住地方で生じたものとするか、それより蓋然性の高いものとしてクァーデー族の地方での出来事とするかについても、正確な答えは出しがたい、と言われている。また、この奇蹟を引き起こした実行者に関しても、説は二転三転している。しかし、ここで重要なのは、結局、ローマ人にとって、この時期、いかに「奇蹟の到来」が待ち望まれていたのかを、この「記念柱」から見出され得ることである。

実際、この「雨の奇蹟」は、「渇きに悩むローマ軍には救いであった。水に流された敵には破壊を意味した。」のである。その奇蹟の雨を、この記念柱の浮彫りが表象しているのは、「ユピテルよりも大河の擬人化を思わせる。」のであり、「それは、川のような雨の厚い幕を通して現れるが、雨の幕はこの形象から流れ出るのではなく、その彼方にまでつづいている。前景には波に押し流される動物や人間の死体が見られ、ローマ兵はむしろ活気づけられて進軍する。」のである。

ローマ軍は、以上の「マルクス・アウレリウス記念柱」の「浮彫り」の中で、二つの「奇蹟」の情景が示す様に、もはや、自らの力を、すなわち、ローマ帝国の力を、どこか信じきれなくなりつつあった様だ。従って、彼等は、自己自身の力ではなく、むしろ、何か別の力を(この場合における二つの「奇蹟」の様に)待望し、そして、信じるのである。それは、先ほどから何度も比較している「トラヤヌス帝の記念柱」の中においては、圧倒的な力で表象されていたローマ軍の姿とは明らかに違い、何かにすがらなければ、もはや、ローマ軍は、勝利することすら叶わないのであった、ということを意味しているのかもしれない。

いずれにせよ、我々は、「マルクス・アウレリウス記念柱」と「トラヤヌス帝の記念柱」の間に隔たる、およそ80年という歳月のうちに、ローマ帝国がいかなる歴史をたどり、いかなる変化を蒙ったのかを、考えてみる必要があるのかもしれない。

(*引用は、全て『人類の美術 ―ローマ美術』 新潮社 1974年 P325〜326による。)


「本当に社会不安の反映なのか?」

しかし、一方で、この記念柱の「浮彫り」の情景を肯定的に解釈しようとする見解もあり、例えば、この記念柱に描かれている「雨の奇跡」と言った場面などは、奇跡を待望する受動的なローマ軍団の姿が示されているのではなく、寧ろ、「・・・何らかの戦勝の反映と考えた方が適切・・・」(*南川高志 『ローマ五賢帝』、P199)とも考えられる。

確かに、マルコマンニ―戦争は従来の元老院議員及び騎士階層のあり方にも大きな影響を及ぼしたのではないのか、と言う見地から考えた際、この戦争はローマ帝国にとってそれなりの危機的な状況ではあったが、騎士階層(*ここでは、マルクス帝により、元老院へ編入された旧騎士階級の者も含む。)が目だって行政・軍事面の表舞台で活躍し始めた、という意味において、結果としては歴史的に意義深い戦争でもあったとも言える。
従って、記念柱の「浮彫り」は「社会不安」の反映が示されている、と言う見解のみを盲目的に受け入れることは出来ないかもしれない。