トラヤヌス帝の記念柱      (temp版)
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トラヤヌス帝の記念柱の全貌

概略

「トラヤヌス帝の記念柱」は、総高約38メートルにも及ぶ円柱であり、建築複合体である「トラヤヌス広場」の中に立てられている。その円柱の周りを、平面に伸ばすと、実に、200メートル近くもの長さとなる浮彫りが、23回転ほどしながら,螺旋状に取り巻いている。そして、その浮彫りには、トラヤヌス帝が、その治世の当初、行った二つの戦役、「ダキア戦役」(紀元後101年〜102年、及び、105年〜107年)での戦争過程が描かれている。

トラヤヌス記念柱のレリーフの一部である戦闘場面
レリーフに描かれたダキア戦争の戦闘の一場面

この円柱は、さらに、その中へ入り、階段を上って、頂上へと至ることが出来る。これは、円柱の内部をくりぬいて作られたものであり、185段にも渡る螺旋階段状となっている。また、円柱の上部には、建築当初、鍍金(ときん)された鷲の彫刻があったらしいが、トラヤヌス帝の死後(紀元後117年以降)、ハドリアヌス帝により、トラヤヌス帝の立像にかえられた。しかし、いつの頃か、この立像も失われ、現在では、1588年にのせられた聖ペテロの像が立っているという。



美術史的な観点

「トラヤヌス帝の記念柱」は、ローマ美術において、「新機軸」の位置を占めるといわれている。それは、以下の三つの側面より説明される。
( 『人類の美術 −ローマ美術ー』 新潮社 1974年 より )

(I)従来の記念柱と違い、この円柱自体が、「トラヤヌス広場」という建築複合体の一部に計画的に取りこまれており、配置の上で単独で孤立して立っているわけではない。この円柱は、「トラヤヌス広場」の中心軸と、二つの図書館(左右に、それぞれギリシア語本とラテン語本を所蔵)の中心軸の交点に立ち、フォルム全体の平面計画に密接に関わっている。

(II)柱身にトラヤヌス帝の「ダキア戦役」での戦勝を称えた歴史的浮彫りが、螺旋状に嵌め込まれている。

(III)この記念柱は、そもそも二重の意味をこめられて立てられている。
(1)トラヤヌス帝の「ダキア戦役」の戦勝を記念するため。
(2)記念柱の基壇にトラヤヌス帝の遺骨を納め、墓廟としての役割も果たす。


「浮彫」の紹介

この「ダキア戦役」の過程を描いた浮彫りのなかでは、2500人ほどの人物が描かれている。また、浮彫りを構成する物語は、大まかに言って、6つの主題で構成され、それぞれ、「出陣に際しての皇帝の訓令」、「供儀」、「軍営などの建設」、「施設と捕虜」、「遠征と進軍」、及び、「戦闘」のパートに分かれている。そして、より細かく分けると、さらに155もの場面に分かれるといわれている。


皇帝の訓令
「出陣に際しての皇帝の訓令」


軍営の建設
「軍営などの建設」


戦闘の様子
「戦闘−ローマ軍団得意の亀甲隊形の場面」



「浮彫り」に表現される「権力者像」と「情念」(パトス)

トラヤヌス帝の治世期において、従来の様式とは違う,新たな美術・建築様式が確立しつつあったと、しばしば言われているが、それは、円柱や、あるいは、ベネヴェントにある「トラヤヌス記念門」などの「浮彫り」にも、見出され得ると言う。

『世界美術大全集5 ―古代地中海とローマ』(小学館、1997年)によると、歴史的事実を浮彫りに記録する「歴史的浮彫り」自体は、前2世紀以来ローマ社会に定着していた美術ジャンルであり、トラヤヌス記念柱も、その基本路線は、伝統を継承発展させたものであるが、しかし、この記念柱では、単に、それにはとどまらない新しい表現方法が確立されつつあった。
それは、従来の「歴史的浮彫り」が、一定の形式性と古典主義に拘束されていたのに反し、記念柱の浮彫りにはそのような枠組みに拘束されることなく細部への関心をそのまま形に表現し、各主題に適切な構図を自由に選択するなど以前の公的美術には見られない要素が現れている点であり、同時に、戦闘場面での激しい「動き」、使節や捕虜の場面における「寛大さ」、戦いに敗れたダキア人の行進場面に見られる「哀愁」までもが表現されている点である、と言われている。

これは、トラヤヌス帝個人の「情念」(パトス)が表現されている点においても、なかなか興味深い指摘である。そこでは,如何に、トラヤヌス帝の「人格」を余すところなくローマ人に伝え、「統治の理念」をうちたてるか、ということが、おそらく、狙いの一つであったのであろう。記念柱における、トラヤヌス帝の「図像」は、「自己のすべての能力、すべての人間的権威を挙げて国政を導く、国家第一の官吏としての君主」であり、ダキア人に対する「征服者というよりは裁判官」(『人類の美術 ―ローマ美術』 新潮社、1974年、P242)という、新しい観念を表現しているのであり、皇帝や帝国を、必要以上に称揚することもなければ、被征服者を、単なる蛮族としてみなす、と言う傲慢さは、ここでは全く姿をあらわしていない。

こういった表現方法は、また、先ほど触れたべネヴェントにある「トラヤヌス記念門」にも、繋がる要素を持っている。

トラヤヌス記念門の全体像
ベネヴェントのトラヤヌス記念門

ここでは、トラヤヌス帝の行った「アリメンタ制」を記念して作られた「浮彫り」が存在しているが、様式においては,「トラヤヌス帝の記念柱」とのつながりは明らかである、と言う。そして、ここで表現されているのは、「弱者に対する強者の傲慢な視点からの表現ではなく、むしろ弱者の屈辱と辛苦を受容する観点」であり、それが「社会的にも導入され、公的浮彫りに貴顕や兵士以外を登場させる配慮を生んだのであろう。・・・・公的美術を見る生活者の配慮であり、そこに民衆美術の台頭する素地があった。」(『世界美術大全集5 ―古代地中海とローマ』 小学館、1997 年、P317)と言われている。

トラヤヌス記念門のレリーフの一部
トラヤヌス帝の善政に感謝する神々と民衆

この記念門の「浮彫り」の中では、トラヤヌス帝は、完全に「民衆」と同一次元の中で表わされており、また、「下層階級がこのような形で、公式の記念物において登場するのは、この「記念門」が初めてである。」と言われている。(『人類の美術 ―ローマ美術』 新潮社、1974年、P236)