以上のように、オスティアが首都ローマと属州各地との交易の中継地として発展し、繁栄した様を遺跡やモザイク、等を通じて見てきたわけであるが、オスティアの繁栄の終焉は同時にトレジャーハンター(宝物荒らし)や石材調達の格好の場所ともなった。従って、高価な宝石類や美術的洗練度の高い彫像、彫刻など価値のある多くの遺物が墓や建物の内部から奪われ、大理石も新たな建築物の資源として用いるために悉く削り取られ、現在のような廃墟と完全に化してしまった。しかし、こうした見た目の価値あるものだけでなく、真の意味で、あるいは別の意味で価値ある遺物を見聞することにより、ローマ社会が、ローマの都市が如何に繁栄していたかを深く理解して行くことも可能となるのではないだろうか。その観点から言えば、ローマ人の精神を理解して行く上で墓碑や碑文の持つ意義は非常に深いものとなって行くのである。今回は紹介し切れなかったが、オスティアでも当然、多くの碑文が都市の内部・外部に所狭しとひしめき合っていた。ローマ人が語りかけるもう一つの豊かさ、すなわち精神の豊かさをこうした媒体を通じても理解していくことができるかもしれない。
数少なく残った大理石で出来た建築物、大理石像の跡

これは、カピトリウムの飾りの跡。当時、カピトリウム自体も大理石で覆われており実に壮麗な景観であったことを想像させる。

また、ミネルウァ神を模したこの大理石像は、オスティア街道から都市内部のデクマヌス・マクシムスへと至るためのローマ門に設置され、オスティアに入る交易商人などを出迎えていた。おそらくディオクレティアヌス帝代の頃設置されたものである。
こうした大理石で出来た建築物の残骸からでも当時、オスティアが相当に壮麗な建築物で囲まれていたことが分かる。
穀物倉庫跡

写真の遠方に見える列柱で囲まれた部分が当時、オスティアにおいて数多く存在した穀物倉庫の内の一つである。往時におけるオスティアのローマに対する穀物供給の重要性を偲ばせる遺跡である。クラウディウス帝代にオスティアの北部に新たな港を開いて以来、その重要性は多少なりとも減退したと言われるが、仮に首都ローマを帝国の頭脳、あるいは胃袋とし、そのローマへと通ずる公道や河川、海路を血管とするならば、少なくとも帝政前期を通じてオスティアはローマ帝国の心臓部であったと言っても過言ではない。
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