POMPEII      04.文化と余暇
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市民の楽しみと憩い

ポンペイの人々は、とにかく集まることが好きだった。彼等は、毎日のように広場に集まっては様々な情報交換や経済活動及び政治や選挙活動を行い、あるいは単なる世間話に熱中していた。そんな彼等にとって、市や一部の富裕な市民の支出によって折に触れて開催される様々な催し物は、なくてはならない生活の一部となっていた。また、彼等は日々の疲れを癒し、あるいは生活に一層の潤いを与える為に浴場に繰り出していった。

こうした市民の文化活動や余暇の場は以下の3つに大別することが出来る。

剣闘士闘技場

劇場

公共浴場

しかし、ポンペイの人々にとって、こうした場所は単なる余暇に過ぎなかったのか?あるいは、もっと別の社会的機能も有していたのだろうか?

剣闘士闘技場

円形闘技場の外壁

ポンペイから出土した建築碑文(顕彰碑文)によると、ポンペイにおいて円形闘技場が建設されたのは、およそ紀元前75年から70年頃、当時のポンペイの両二人委員の資金の自己負担によってであった。(*C.I.L. X 852)
ローマで恒久的な円形闘技場、所謂コロッセウムが奉献式を迎えたのが、紀元後80年のティトゥス帝代であったから、およそ一世紀前にはポンペイでは円形闘技場が存在していたことになる。この円形闘技場は、約1万5千人程度収容できたことを考えると、規模においても、ポンペイと言う小規模の都市とその人口に対して大きすぎるものであった。このことは、ポンペイの円形闘技場で開催される見世物が単にポンペイの住民のみならず、近隣の住民、例えばヌケリア人と言った人々をも招く形で開催され、その意味でもポンペイがこの近隣一帯の一大文化センターの役割を担っていたとも言える。

円形闘技場の全貌

円形闘技場は、ローマのコロッセウムと同様に楕円形型となっており、実際に剣闘士達が実演する場所はアレーナ(*砂地を意味する)と呼ばれていた。ポンペイでもアレーナが白い砂地であったかは詳しくは分からないが、もしそうであるとすれば、剣闘士によって流され飛び散った深紅の鮮血は、白い砂地の上に降り掛かり、観客に一層の視覚的な興奮を掻き立てることとなっていただろう。
円形闘技場で開催される剣闘士闘技は「死のゲーム」と形容しても良いほどに真剣勝負としばしば凄惨な殺戮の舞台となっていた。こうした剣闘士闘技には大別して3種目の競技が存在していた。剣闘士同士が、1対1あるいは複数人で闘い合う「剣闘士闘技(munera)」、剣闘士対野獣、あるいは野獣同士が殺し合う「野獣狩り(venatio)」、そしてアレーナに水を引いて人工プールにして、その上で艦船同士が闘い合う「模擬海戦(naumachia)」である。

ポンペイの墓碑レリーフに描かれた剣闘士闘技の場面

上記の画像は、ポンペイより出土した墓碑のレリーフに描かれた剣闘士闘技の場面である。

ポンペイの墓碑レリーフに描かれた猛獣に噛み殺される処刑の場面

また、同じレリーフにはいわゆる「野獣狩り(venatio)」の場面も幾つか描かれているが、この場合は、寧ろ、罪人を円形闘技場の中で猛獣に噛み殺させると言う残忍な公開処刑を冷ややかに描き出している...

ところで、こうした剣闘士闘技は基本的には日中に行われるが、とりわけカンパニア地方の夏の日射しは皮膚を突き刺すように痛い。そんな中で観客には快適に見世物に興じてもらおうと興行主はサービスに余念がなかった。例えば闘技場への日除け用の天幕の設置である。ポンペイから出土している壁面広告からは、実際に興行主による「天幕(velum)設置」を謳った客寄せ文句を読むことが出来る。(*Diehl 244 = C.I.L. IV 1177)


剣闘士養成所

上記の画像の建築物は大劇場の南側に位置し、元々は青少年の体育の為の公共施設であったが、後に剣闘士養成所となり、鍛錬場であった中庭を囲む部分が剣闘士の宿舎となっていた。剣闘士達は普段、この剣闘士養成所において厳しい訓練を受けていた。こうした養成所では軍隊式の序列が持ち込まれる一方、養成所付きの勤務医(medicus)によって十分な健康管理が行われていた。勤務医の存在は、剣闘士達にとって如何なる意義を持ちえていたのであろうか?一つには剣闘士を貴重な商品と考える興行主による冷徹な算盤勘定によるものであろう。つまり、屈強な奴隷を剣闘士として購入し、十分に目の肥えた観客の要望に応え得るような闘技を繰り広げる為の訓練には非常に費用と時間を要する。そうした剣闘士達が、闘技に出場する前に健康を害したり訓練中に死なれるのは興行主にとって最も恐れるべきことであった筈である。
しかし、より人道的な、あるいは感情的な立場から剣闘士達に対する配慮が為されていたことも決して否定し得ないのかもしれない。剣闘士達は、ポンペイの人々にとってもスターであった。常に死を背負って闘う彼等の姿に身分を問わず多くの女性が惚れ込んでいたことが落書きを通じて分かっている。その中には、恋人同士になる者もいた。重要なのは、剣闘士に対して生じ向けられた感情の所作である。例え、それがエロティシズムや憐みに起因するものだとしても、彼女達あるいは彼らによって剣闘士に向けられた熱い眼差しは、剣闘士もまた人格を有する人間であることを想起させてゆくことも十分にあり得たのではないだろうか。

実際に剣闘士に対するポンペイの人々の眼差しが如何なるものであったのかを示すのは非常に困難である。しかし、少なくとも剣闘士自身が明確な人格を有していたことを示す手掛かりは墓碑銘や、あるいはここポンペイであれば、剣闘士の宿舎の壁面に刻まれていた彼等自身の手になると考えられている落書きから証拠立てることも出来る。その落書きの一つには短くこう刻まれている。

“ Lucius Annaeus Senecas “
(Diehl 116 = C.I.L. IV 4418)

哲学者セネカの名を刻みながら、剣闘士は何を思っていたのであろうか...

アレーナから見上げた円形闘技場の観客席

視点を再び円形闘技場に移す。

ポンペイの円形闘技場は35段の客席に分かれている。そして、この客席は帝政初期のアウグストゥス帝代における「ユリウス劇場法」の制定及び公布により、身分や階層別、更には既婚か未婚、性別によって厳密に席分けされ、「身分秩序の体現の場」ともなっていった。剣闘士闘技を最も間近で観戦出来たのは都市の最有力者達である都市参事会のメンバーであった。彼等と彼らに続く上層市民が凡そ前列から5段目までを占め、続いて12段程を一般の既婚市民(男性のみ?)、そして残りの18段程を、女性、被解放自由人及び奴隷あるいは市民権を有さない者や外国人が占めていた。

円形闘技場の席に刻まれた碑文

特に有力で名誉ある市民は恒久的な特定席を確保される栄誉を得ることが適った。 例えば、上の画像の通り、ガイウスの息子ティベリウス・アトゥッリウス・ケレルは都市参事会によって(* ex decreto decurionum)最前列に特定席が与えられ、そのことが円形闘技場の客席に碑文として明示されている。(*C.I.L. X 854) こうした碑文の存在は、ポンペイにおいて名誉を獲得することが如何に重んじられていたかを示し、こうした名誉ある市民の何らかの貢献が社会とその人々に大いに期待されていたことを表明しているのである。


劇場

上空から見た劇場周辺:提供はGoogle Earth


ポンペイには劇場が二つあり、しかも興味深いことに隣接して設置されている。ところで、この地区はフォルムの南東部に位置し、前3世紀から2世紀にかけてのヘレニズム文化の影響下で再開発され、当時のポンペイの文化興隆の一役を担っていた。
大劇場の西側に隣接する場所は、現在では木々に覆われてしまっているが、所謂三角広場と呼ばれ、元々はここにギリシアの体育場に倣った運動場が設置されていた。

大劇場

大劇場では喜劇や悲劇が上演されていたと言う。また、帝政期に入ると、パントマイム劇と呼ばれる一種の無言ダンス劇が徐々に演劇の主流となって行くが、ポンペイでも有名なパントマイム俳優及びその一座を招いたことが有力な市民の墓碑銘に刻まれている。
その碑文では、A・Clodiusなる人物が生前に3度二人委員(duumvir)を経験し、その内の初めの二人委員時代に、Pyladesと言う有名なパントマイム俳優とその一座をludus(祭り、通常は演劇祭の意味)の為にわざわざ招いたことが誇らしげに刻まれている。(C.I.L. X 1074)また、この碑文が示すように、政治活動に従事する上層民にとって、市民からの尊敬と愛顧を獲得することが名誉を保持し、あるいは次の選挙に勝利する為の必須条件であり、市民へのサービスを常に抜かりなく遂行し続けることが彼らの使命ともなる一方、市民からも当然のようにそれを期待されていたことが分かる。ポンペイにおいて、文化活動や余暇は常に政治的な活動と同意義であり続けていたのである。
因みに、このPyladesと呼ばれるパントマイム俳優はアウグストゥス帝の贔屓であったキリキア出身の悲劇パントマイムの開祖Pyladesを源氏名として受け継いだ人物であるが、このように名を馳せた俳優の名は弟子達に継承されてゆくのが習慣であった。

舞台から見上げる大劇場の客席

この大劇場は、自然の傾斜を利用して作られ、約5千人程の観客を収容することが出来た。現代の劇場がそうであるように、当時の劇場も観客の視覚及び聴覚を十分に堪能させる為に様々な要素で成り立っていた。大別すれば、Pulpitum(俳優が上演する舞台)、Orchestra(舞台手前の半円形状の合唱隊の待機する場所)、及びCavea(観客席)の3つの要素に分かれていた。設計の際には、音響効果が最大限に発揮されるように十分に計算され、野外劇場と言う性質上、日中は太陽の強い日射し、あるいは、雨から観客を保護することが出来るよう天幕を張ることが出来るような工夫が為されていた。また、舞台の背後は円柱や石像などが色彩豊かにデコレーションされており、とりわけ主に宮中を舞台とするギリシア悲劇の上演の際には、俳優が舞台と十分に溶け合うよう視覚的な配慮も為されていた。また、バックステージには、俳優一座が待機し上演の準備や休憩をすることが出来るように一室が設けられていた。
尚、劇場でも、円形闘技場と同様に客席は身分等に応じて厳密に分けられていた。

ポンペイの邸宅より出土した舞台裏で打ち合わせを行う演一座

上記の画像は、ポンペイの邸宅で見つかったモザイク壁画であり、舞台裏で悲劇の上演に向けた衣装合わせや打ち合わせを行っている場面を描いている。画面中央には「アウロス」と呼ばれる縦笛を吹く男性の姿が描かれている。また、画像中央下には悲劇俳優が上演中に嵌めていた「悲劇用の仮面」が描かれている。

「ファウヌスの家」より出土した「悲劇俳優の仮面」のモザイク画

こうした「悲劇俳優の仮面」の図像は古代ローマ時代の邸宅内部を飾る装飾品ないし壁画や柱廊のレリーフの題材としても多用されており、当時の人々にとっての演劇の持つ意味や、あるいは「仮面」そのものが有する社会的・文化的、場合によっては政治的な意味を推し測るのに飽きない。
何れにせよ、「仮面」そのものが古代ローマ史において非常に興味深いテーマとも言えそうだ。こうした点については、何れ改めて追求してゆきたいと思う...


小劇場

ところで、大劇場の南東部に隣接する所謂、小劇場、あるいは音楽堂とも呼ばれる小規模な劇場がある。この劇場は1,300人程度であり、舞台と観客席との間が非常に接近している為に、大劇場に比べるとやはり随分と小規模な印象を与える。
この小劇場では実際に何が開催されていたのか?しばしば言われていることは、元々は屋根付きであったこの小劇場では、詩の朗読や音楽の演奏が行われていたらしい。一方で、ここで時折、市民集会が行われていたとも言われることがある。何れにせよ、大劇場に直ぐ隣接する形でこの小劇場が作られたと言う点は非常に興味深いことであり、若干なりとも謎めいているように思われる。
尚、前列から5段目まではそれ以降の段の客席に比べてゆったりとした作りになっているが、これも上層民が快適に座ることが出来るような配慮が施されている為である。円形闘技場であれ、こうした劇場であれ、ポンペイ、延いてはローマ社会全体が厳然たる身分制秩序の下で成り立っており、その事実を各人に常に意識させ、徹底的に脳裏に植え付けさせるような視覚的な仕掛けを入念に行っていた現実を改めて理解せざるを得ない...

俳優達に関する落書き及び碑文

ここでは、少し視点を変えて、ポンペイで出土した俳優に関する落書き及び碑文を数点ほど紹介したい。

"アクティウス・アニケトゥスにごきげんよう!ホルスにごきげんよう!”
(Diehl 305 = C.I.L. IV 3891)

”アクティウス、俳優一座の主人にごきげんよう!”
(Diehl 306 = C.I.L IV 5399)

アクティウス率いる俳優一座はカンパニア地方で手広く活躍し、ポンペイやヘルクラネウムでも非常に人気を博していた。こうした落書きからも彼等が如何にポンペイの人々の憧れの的であったかを窺い知ることが出来る。
ポンペイでは、他にも人気を博した俳優が存在した。それが、次のパリスと呼ばれる人物である。

”パリスは舞台の真珠だ!”
(Diehl 312 = C.I.L. IV 3867)

"パリスに勝るものなし。彼は勝者だ!”
(AE(1985) 288)

時には、パリスのファンと称する者が、選挙でのある候補者への支持を請うている。

”ガイウス・クスピウス・パンサを造営官(aedilis)にしてくれるようお願いする。パリスのファンであるプルプリオーが(書いた)”
(C.I.L. IV 7919)

最も興味深いのが以下のソレックスなる二番手俳優(secundae)に捧げられた半身像の設置の栄誉及び顕彰碑文である。

”ガイウス・ノルバヌス・ソレックス、二番手俳優、近隣住民区のフェリックス・アウグストゥス(神官団?これもAugustalesのことか?)の祭司長の肖像(を設置した)。都市参事会の決議によってこの場所が与えられた。”
(C.I.L. X 814)

ローマ社会においては、法的にも社会的にも俳優の地位は剣闘士及び奴隷と同様に最下層に位置づけられていた。このことは「アウグストゥス婚姻法」にも明示され、リウィウスやキケローなどの記述からも俳優が自由市民としての権利を剥奪されていることが示されている。従って、本来、彼等は公的に栄誉を受けることが決して適わない存在でもあった筈である。
しかし、現実には帝政期を通じて、しばしば幾人かの俳優が都市から公的な栄誉を与えられ、あるいは皇帝の愛顧を得て相応の権勢を振るうこともあった。そして、何よりも忘れてはならないのが、彼らに熱狂した市民たちの存在である。市民が見世物や演劇のスターである舞台俳優を贔屓にし、熱い眼差しを向け続ける限り、こうした市民から尊敬と信頼を勝ち得たい上層民にとって、法的な立場がどうあれ俳優たちの存在は決して無視し得ないものであったのである。ローマ社会が孕む「ねじれ現象」をこうした俳優に関する落書きや碑文は示唆的に語っているのである。


公共浴場

市民にとって午後以降の憩いの場となっていたのが公共浴場である。公共浴場では大抵の場合、4分の1アス(*安ブドウ酒一杯が1アス)程度であったから、一応に誰でも気軽に利用することが出来た。日本での銭湯のイメージに近いと言えば確かにそうとも言えるが、ローマ社会では、公共浴場はしばしばPalaestraと呼ばれる体育場に隣接あるいは付属して建てられることも多く(*場合によっては図書館が完備される場合もある。)、市民はまずこの体育場で適当に運動をして汗を掻き、その後に公共浴場に入って行くのが習慣であった。
公共浴場は、大抵は脱衣所と3つの浴室とマッサージ室から成っていた。脱衣所で服を脱いだ客は、まず温浴室で湯船に浸かり、続いて熱浴室で存分に汗を掻きながら、次の浴室が開くのを待つ。中には健康維持の目的でこの熱浴室で敢えて長居をする人々もいたと言う。熱浴室の次には冷浴室で火照って緩んだ肌をピリッと引き締めて浴室を後にし、最後にマッサージ室で専属のマッサージ師に肌をほぐしてもらいつつ夕べの晩餐に備えていた。

Palestraでの運動から浴場を出るまでの一連の流れは、ポンペイの人々にとっては、単に憩いを求める為のみではなく、極めて活動的で野心的な時間でもあった。彼等はこの時間に幾人かの人々と商売や選挙などに関する情報交換を行い、時には密談を企てることもあった。何時如何なる時でも虎視眈々と儲け話や政治的な野心を狙っている強かさがポンペイ流でありローマ流であるとも言えるのだろう。

公共浴場のサウナ

上の画像は熱浴室(サウナ)の様子である。中央の水盤の中心部分には通水孔があり、そこから温水と蒸気が吹き出していた。この水盤に溜まった温水で人々は体を洗っていたと言う。
ともすれば密室で暗いイメージになりがちなこの熱浴室を明るくしているのが、天井部分に開けられた丸窓である。そこから射し込む光がこの熱浴室に開放感を与えている。